21世紀のビジネス潮流

21世紀のビジネス潮流の変化がエグゼクティブ、プロフェッショナルの転職機会に

米国一極集中のグローバル経済覇権から中国、インドパワーへの多極化の流れ、人間の欲望の多様性こそが「合脳的」、視野の広い専門家を育成することの必要性、さらにアートの世界が新たな道を拓く。これらの一連のトレンドから、今日の経済社会の成熟、混迷を切り拓くキーワードは、「多様性」「多極化」「全体的」といった自分の固定概念を超えた座標軸だろう。

1.グローバル化の変容

現在のグローバル化は自由経済の冷戦勝利と、IT革新の進展がきっかけだ。この二つを主導したのは米国であり、その軍事的、経済的、文化的優越だった。グローバル化とは即ち世界のアメリカ化であり、米国覇権確立の過程だとの認識が生まれた。この認識はグローバル化に心酔する側だけでなく、これに反発する勢力にも共有され、その強い懸念と憤怒をかき立てた。一国スーパーパワーの単独行動主義やIT革命のもたらすデジタルデバイドが厳しく批判された。
これで米国が勝利したかにみえたが、現代のグローバル化の現実は、この認識を大きく裏切っている。確かに米国の軍事的、経済的優勢はいまも否定しがたい。だがイラク戦争の膠着状態や双子の赤字の再現は、それが無条件には妥当しないことを示唆している。
現代のグローバル化の帰結として注目されるのは、むしろ中国、インドなどの経済的躍進だ。デジタルデバイドの危惧とまさに裏腹に、中国、インドはこの技術革新を絶好の跳躍台として利用した。もともと技術革新は格差を広げるという見方は一面的。20世紀初めの日米両国も電力革命を利用して発展した。
デバイド説が全くの見当違いだというのではない。時代に大きく取り残される地域があることは事実だ。しかし中国とインドの合計人口は23億5千万人。グローバリゼーションは世界人口のほぼ4割に、その歴史的貧困からの脱却を用意しつつある。この事実と米国覇権の貫徹というグローバル化イメージとの差は大きい。現状はグローバル化の意味転換を促し、これに新たな正当化の証拠を与えつつあるのではないか。
中国の躍進と対照的なのは、20世紀の大国、今日のミドルパワーの経済停滞だ。米国との差を詰めつつあった独仏伊などEU大国は、1980年代半ば以降、対米格差の再拡大に直面している。
再生米国と躍進中国の谷間に陥没しそうなのは、残念ながら日本も同じだ。アジアの脱貧困を祝うためにも、日本の構造改革を通じたグローバル化への果敢な適応が必要とされている。
日本の主要企業がこのところ企業業績を回復してきたとはいえ、その要因となったのは人件費などコスト削減を推し進めてきた後ろ向き経営の結果であり、一部企業を除いて付加価値向上、収益率といったグローバル経済基準では、米欧主要企業に対して見劣りする。アジアの中でも中国、台湾、韓国の企業の躍進は目を見張る。グローバルで競争しているからだ。経営のプロが果敢に挑戦している。一方、日本の経営者は、今まで社内だけで通用するマネジメントスタイルのぬるま湯に浸って来た。精々国内市場での競争で済んできた。いまやひろくグローバル市場での優勝劣敗を競う競争だ。日本のCEO、COO、CFOなどエグゼクティブは、寒風吹きすさぶ世界の荒波に漕ぎ出して勝負するだけの経営者としての気概が問われている。

2.多様性こそが「合脳的」

人間の欲望がむき出しになって社会の流れをつくり出す。欲望とその充足ほど人間を変えるものはない。快楽は脳を変えてしまう劇薬なのであって、その処方には十分気をつけなければならない。社会全体の対しても果実をもたらす方向に自分自身の欲望を導いていく「快楽の自己責任」が求められる所以である。文化を高度に発展させた人間の欲望は単純に割り切れるものではない。社会の誰もが金儲けに走るような「欲望のモノカルチャー」ほど文化を貧困にすることはない。金では買えない快楽こそが真実や美へと人類を導くインスピレーションを与えてきたのである。人間の欲望は複雑で単純に割り切れるものではないが、快楽の多様性を認め、単一の価値観で割り切ることの愚を悟ることが大切ではないか。私たちの脳のなかで、ドーパミンの上流に位置する「快楽のアマゾン河」は広大であり、人それぞれである。欲望のあり方が単純に割り切れないことを認め、その多様性を育むことが何よりも、「合脳的」なのではないか。
社会が拝金主義で塗りこまれる気配を敏感に感じて、その対極にある研究生活、NPO活動など非営利活動に身を置く人も増えている。ビジネスに直結した活動は、学問や非営利活動よりも案外つまらないものかもしれない。それほど次元が高いものではないかもしれない。自ら内なる快楽の質を追求することが歴史を変えるような知的飛躍につながる。欲望は地上の充足に向かうのみならず、精神の高みに至る原動力でもあることを、現代人は思い起こしてはどうか。

3.視野の広い専門家養成の必要性

モノ作りを中心としたオールド・エコノミー体制に機能した日本の教育制度は、ニュー・エコノミー体制下での中核的・創造的労働者としてエリートを育てることができない。人口減少社会の日本で不足するのは、単純労働者ではなく、エリートだ。確かにコスト削減を重視するあまり、国も企業も人材育成を余りに軽視しすぎてきた。
専門家の育成はますます時間とオカネがかかる時代になっている。学会や学問体系の内部で専門の細分化が進んでおり、一人一人の専門家は問題を部分的にしか理解できず、大きな問題に対して全体を俯瞰して発言できる人がいない状況である。そのため、大問題になればなるほど、専門家が自分の専門領域に「撤退」するため、素人が集まって、いい加減としか思えないことを言うことになる。専門化が進んだ時代は視野の広い専門家養成の難しさを表わしている。
それでは、日本の経営者はどうか。彼らは営業、企画、経理など出身分野で成功を収めたその価値観、思考方法、行動パターンから脱却できていない。マネジャーと経営のプロとは決定的な違いがある。延長線上にはないということだ。プロの経営者は、質を変えて全体を捉える眼が必要だ。そしてグローバル市場にあって従来の農耕民族スタイルから脱却して狩猟民族の意識・行動パターンへの変容が求められる。

4.アートの世界が新たな道を拓く

イマジネーションとコミュニケーションの世界、それが芸術だ。芸術は平和創造のプロセスで、問題解決の糸口を提案できる。20世紀は想像力喪失の歴史だった。人間の智慧と政治と科学で、より良い世界がつくれる。多くの人々がそう信じて豊かな物質文明へと思いを馳せてしまい、愛や夢、ロマンなどといった人間性は顧みられなかった。その究極のゆがみが9.11のテロを招く。日本でも相次ぐ悲惨な事件や事故も、同じ人間なのにという思いやり、想像力を置き忘れた結果であった。
600年前に芸術の力でルネサンスが起こり、世界が変わった。21世紀は芸術のパワーで平和な地球社会を築いていく時代だ。日本には芸術の国の伝統があり、世界の期待に十分応えられるのではないか。
アートは精神や感覚の世界を表現して現実にかかわっている。自らを内観すれば本質が見える。動きを止め耳を澄まして自己と外部の世界を覗いてみよう。何が見えてくるだろうか。何に気づくだろうか。巨大なシステム社会に埋没するのではなく、アートで個人の意思を形で表現できる。自由な発想、多様な尺度や遊び心が、新しい気づきを呼び起こす。こういったアートの力に寄り添うことで今までと違った世界が見えてくるのではないか。
アートは情熱、勇気、感動を人々に与える。我々は魂の医者だ。アートは人間の連帯感を喚起でき、たった一人の行動でも世界に波紋を起こせる。いまアートを芸術家の持ち物と限定せずに、ひろく我々の手中にしてビジネス社会に応用しよう。
アートは真実を表現できる社会的媒体だ。自分だけの世界からモノを見ずに、相手の立場でモノゴトを見ると現実は違って見えてくる。人間社会には勝者も敗者もない。問答無用の競争主義が現代社会のゆがみを生んだ。地球上の人々は今日もそれぞれの場所で生きている。謙虚に相手の言葉に耳を傾ける精神こそ重要だ。アートは21世紀のパラダイム転換に寄与できる。
ビジネス・ピープルも既存の意識・態度・行動の枠から一端離れてみて、アートの力で多様性をもった考え方や異質なものを取り入れることで新たな世界の発見に繋げていったらどうだろうか。